人気ブログランキング |

<   2016年 11月 ( 4 )   > この月の画像一覧

幸せという概念について

世の中のありふれた「女の幸せ」論とか、「家族のある幸せ」論というものはパッケージ化された見本市のようなもので、ぼくはその言説を全く信用していないし、おそらくみんなも何がしかの違和感を持っているに違いないと思う。むしろ、そういう「幸せ論」はある意味ラベリングであって、結局は「こうあるべきだ論」に終始するだけのどうしようもなく押し付けがましいものだし、とても傍迷惑だ。人の数だけ考え方や捉え方はあるわけで、人の数だけ幸せの形があってかまわない。



フェイスブックの通知がえらいことになっていたので、久しぶりに開いてみた。何十もの通知の中から、はるか昔、まんこが臭すぎて別れた女が結婚したことを知った。「まんこが臭すぎて別れた女」である。我ながらひどい話である。あれは高1の時だった。友達が家に遊びに来ると言って、いいよと言ったら、ややぽっちゃりではあるものの可愛らしい女が友達の後ろから引っ付いて来た。名前を、さやか、と言った。コタツに入りながら他愛もない話をして、翌朝ふたりは帰って行った。その日の夜、ぼくのガラケーに「わたし傘忘れてないですか?」とメールが来た。スカイメールである。ボーダフォンユーザーの我々は、昨晩連絡先交換をしたのであった。「玄関に見慣れない傘がありますね」そんなやりとりをした。



翌週、さやかはひとりで家に来た。そして、セックスした。「忘れた傘を取りに来てセックスをする」という、訳の分からなさが、ザ・青春という感じなのだが、問題はそこではない。まんこが臭すぎたのだ。そもそもまんこは臭いという概念(あるいはラベリング)がある中でも、特別臭かった。この世のものとは思えないくらいだった。そこを押してセックスしたのだ。まんこが臭くても10代の性欲は勝つ。これぞザ・青春という感じがする。そしてさやかとぼくは、「忘れた傘を取りに来てセックスをして付き合った」。不可解である。よど号事件的な、超法規的措置である。性欲はマン臭よりも強い。福田赳夫ばりに言ってのけた。しかしながら、10代の恋愛のほとんどがそうであるように、結果長くは続かなかった。ぼくは生粋のクンニボーイとして、現在まで性的活動に従事してきたわけなのだが、果たしてこのまんこ、どのようにクンニすればよいのか途方に暮れる有り様で、そもそもクンニとは?クンニリングスって何や?名前おかしいやろ、そもそもまんこもおかしいやろ名前、ちんこも何やねん、どういう名づけの発想やねん等と不要不急の自問自答を繰り返すようになり、徐々にクンニ精神を蝕まれていくことを自覚、遂に別れを決意したのであった。当然ながら、まんこが臭いと直球で言えるはずもなく、当たり障りのない理由で別れた。さやかは泣いた。号泣していた。ますます、まんこが臭いから無理、という理由を告げられなくなった。かくして、「忘れた傘を取りに来てセックスをして付き合った女のまんこが臭かったので別れた」という、本当にどうしようもない2002年冬のエピソードが完成した。あれから14年。幸せオーラ全開のさやかは、ぼくとは全く違った概念の幸せを獲得したのかもしれない。



そもそも、ぼくは幸せという感覚がいまいちよく分からない。正確に言うと、「幸せという意味の言葉」と「幸せという感覚」が一致したことは今までにない。例えば甘いパフェが好きだけど、ひとくち食べた瞬間「シアワセ~~」みたいな感想は一切出てこない。『甘くて美味しい』それだけである。もうすでに感じているのか、それともこれから感じるのか、それすらも分からない。あまり意識していないだけなのかもしれない。けれども、ぼくは、今までもこれからも、なんとなくイイ感じで続いていく気がしている。幸せかどうかは分からないけど、なんとなくイイ感じ、だとは思っている。



感覚には統一された度量衡がない。ものさしが無いのだから、実際に味わっている感覚とそれを表す言葉の意味とに誤差が出るのは、考えてみれば当然だ。つまり、ひと様の感覚に対してどうこう言うことは、あまり意味のないことだとも言える。それでも「幸せ論」的に、感覚について言葉を尽くそうとするのだから、人間というものは滑稽だ。我々人間は互いに言葉を通い合わせて意思疎通を図らないといけないのだけれど、感覚はしかし、同じものさしで共有できないから、社会的に通用するひとつの指標を創り上げ、無理矢理ものさしを統一させようとする。考え方や感じ方、その全てについて人間は社会化されなければならないし、社会化され得る人間が必要だということは明白だけれども、ぼくのような落ちこぼれもたくさんいる。



結局、気の合う者同士がいちばん楽だ。何なのかよく分からないまま話したり遊んだりつるんだりする、その理由を言葉で表すことは難しい。つまりそういうことだ。本当に息をのむほどの衝撃を受けた音楽や本、映画について、ぼくたちは十分に語り得るだろうか?ほとんど感覚的だし、言語化できないし、共有できない。言葉を尽くせば尽くすほど、逆に嘘っぽく、薄っぺらく、中身のないものに感じてしまう。彼氏のいいところを自慢しまくる女の迎える末路が、ハッピーエンドだった試しがない。当たり前のことをさも「やりました」とドヤ顔で言っている奴が、良い奴だった試しがない。大声で幸せだ~~!と叫んだ奴は、たいてい宗教やってるかマルチ商法にハマっていた。結局ぼくらは内心「イイ感じ」と思えていたら、それがいちばんの幸せなのかもしれない。




by ahoi1999 | 2016-11-23 02:47 | 生活 | Comments(0)

例えば3人家族がいて

旦那と嫁、そしてまだ乳飲み子の長男がいる3人家族がいたとして、その嫁は長い黒乳首を持つかたわら、その昔数々の男たちと色々な変形プレイをして(ある時は言われて、ある時は自ら欲して)きたし、旦那と付き合ってからはと言うと、現在までそのしつこいくらいの前戯から発展的に分岐した特殊性癖にも出来うる限り応えて(ある時は言われて、ある時は自ら欲して)きたわけなんだけど、その生涯においてその黒長乳首を一等いじったり吸ったりしてきた「男」はこの乳飲み子だということを彼女はまだ知らない。当然に意識もしていなくて(むしろそんな想像をすることすら許されないのが母子関係だろう)、けれどもその「その黒長乳首を一等いじったり吸ったりしてきた」という厳然たる事実はこの乳飲み子を無類のおっぱい好きとして育てていくには必要十分であるし、世の中の男たちが「おっぱい、おっぱい」とうわごとのように申し、果ては「おっパブ」なる性風俗店をも利用してしまう運命に導いていくことはわざわざ史的唯物論に拠らなくとも明らかだ。そもそも「おっパブ」の存在自体が逆説的に"それ"を証明してしまっている。つまり、男のおっぱい好きはおっぱいがなくては生きられなかった乳児期の記憶の追体験であり、いい年こいた40過ぎのオッサンから今時のシュッとした若者までが、エレベーターの中や、発車のベルが鳴る電車へ駆け込む瞬間、高ストレスを感じる仕事中などの状況下で「おっぱい、おっぱい」とうわごとのように申すのは、話し言葉と会話が成立する前の、「おはようございます」以前の、人格が社会化されるずっと前の、乳児のひとつのコミュニケーションなのだということは明白であるし、街の歓楽街で酒に酔った挙句5~6人連れだって「おっパブ」へ行った時の高揚感は、ふだん感じるより、もっと本能的で脳幹的なエクスタシーなのかも知れない。



by ahoi1999 | 2016-11-16 00:32 | 妄想劇 | Comments(0)

ただまんの概念について

会社の先輩(33歳既婚)が「パチンコで勝った金で行く風俗のこと」をさして、「ただまん」と言っていた。「ただまん」である。ぼくは違う、それは決して「ただまん」じゃないと思った。何故なら金を払っているからだ。たとえパチンコで勝った金、つまりギャンブルの果てに得た泡銭であったとて、店で金を払えばそれはもう決して「ただまん」ではないのである。金を払ってセックスしたらもう、それは「ただまん」なんかじゃない。ぼくは言った。『それただまんちゃいますよ。金払ってますやん』すると先輩は、『アホ、元手が5,000円で30,000円勝ったらその差額は天から降ってきたようなもんやろ』『おばあちゃんち行ったら何故か貰った小遣いみたいなもんやろ』と言った。なるほど、と思った。ぼくは試しに、全く関係のない第三者にこの話を聞いてもらい、解釈の是非を問うた。するとその人は『トータルで負けてるギャンブルなら「ただまん」とは言えんな』とぼくに語った。むしろその解釈は訳が分からない、そんな複雑な見方もあるのか?と思った。



これは、「概念の違い」とでも評せられようか。つまり物事を理解する上での文化が違うのである。この違いはわれわれが想像する以上の隔たりがあると考えてよいだろう。例えばあなたは、深夜のドン・キホーテで見ることのできる/デコレーション軽自動車に乗った/金髪プリンで/オラオラセットアップの/クロックスを履いた10代と思しき夫婦にすがりつく/後ろ髪を伸ばした金髪の未就学児童/のような底辺トリプルコンビセットとわざわざ親しくなりたいと思うだろうか?つまりそのくらい、概念の違いというものは、絶望的な隔たりを生む。意味不明なヤンキー家族なら、まだ目に見えるだけマシだろう。避ければいいのだから。しかしながら、概念が違うとなると、これはどうにも避けようがない。概念は目に見えない。つまり物事を理解する上での文化が違うことを認識するためには、ある程度親しくならないと分からない(「あんな人だと思わなかった」のひとことは、こういう時に使ってるんじゃないでしょうか)。



さらに深刻に掘り下げよう。例えば認識の違いや誤解は、話し合いである程度解決できる。しかし、概念の違いは、話し合いでは決して解消することはない。考え方がまるっきり違うのだから、いくら言葉を尽くそうと、理解できやしない。いや、そもそも「コロンブスの卵」のように、食べるための卵を突然つぶしてしまって『立ったね、卵』なんてドヤ顔で言い出す相手に、ぼくらは言葉を尽くす気が起きるだろうか?こいつは頭がおかしいのではないか、卵は食べ物だ、もったいないではないかと、そう思わないだろうか。



なんとなく気が合わないとかいう理由で、付き合いをやめた人がいる。当時はなんとなくだったけど、今なら確実に分かる。あの人とぼくとでは、概念が違ったんだ。何度も言葉を交わし、めしを食ったり、酒を飲んだりしていて、なんとなく気が合わないと言うのは、相手と自分では概念がまるっきり違うということなのだと思う。きっと「ただまん」の話をしたならば、冒頭のやり取りよりも、もっと酷い展開になっていただろうなと思う。男と男でこれだけ違うのだから、男と女なら、なおさらだろう。ここまで書いていて、ふと思い出した。何年か前の今頃の季節に、「ただまん」させて頂いた阪急沿線にお住いの性欲豪強女(せいよくたけしのつよめ・仮名)とは、なし崩し的にセックスして、ちょっとデートしたりだったんだけど、その後お互いなんとなく連絡を取らなくなったのは、性欲豪強男(せいよくたけしのつよお・仮名)から始まってそれ以上の関係性になり得ないなと思ったぼくの包茎チンポ根性だけではなくて、あの人の言葉を尽くしてもかすめていく感じが嫌だったというのもあったし、つまり概念の違いだったんじゃないかな。今年はみんなも、寒さと性欲に負けず、概念の最大公約数の範囲で、人間の暖かみを求めてください。




by ahoi1999 | 2016-11-05 01:26 | 生活 | Comments(0)

先輩の話

もう10年の付き合いになる地元の先輩(34)が、『この前なぁ~俺の姉ちゃんが結婚する言うて、旦那さんの田舎まで挨拶行ってんかぁ~~』と急に話し出した。『えっ、わざわざ旦那さんの田舎まで行ったんですか?』と思わず聞き返した。先輩のお姉さんは福井の人と結婚したらしかった。田舎特有の、互いの一族郎党が顔を合わすという、なんとも煩わしい儀式があるらしく、嫁に出す側の先輩一家が福井までどんどこどんどこ言わしながら行ったそうだ。『俺んち分家筋やし、一族郎党って言っても俺ら一家しかおらんかってんけどな』ということで、『俺、オトン、オカンの3人よ』というコンパクトな陣容。それに対して『いやでも向こうの家15人ぐらいおったで。姉ちゃんはもう向こう側の一族にカウントよ。まさに一族郎党。多勢に無勢とはこのことやな!』そんな状況だったらしい。旦那さん一族の権勢を誇るがごとく長机からはみ出すほどの大皿料理の数々が並べられ、それでもって一族顔合わせの宴が始まる。『もうほとんど覚えてないわ、人多いし、酒飲んでただけやけど』と言う。しかし酒席のテンションは常に流動的だ。『オヤジとなぁ、旦那さんのお祖父さんがしゃべってて。95歳?やったっけ。そのオジイが戦争の話をし出してオヤジもふんふんそうですかて言うとったわ』『「わしゃ~砲兵をしとったんじゃ~~!!中国でなぁ!!これをこうして、ああして!!」ってオジイが言いながら大砲打つ手順を教えてくれるねん』『もうな、身振り手振りやで。でもな、動きが緩慢すぎて何なのかさっぱり分からん』『俺はそれを横で聞いててんけど、オジイやたら興奮してしまいよってな。まあ孫の結婚やもんな』『もう突然、あまりにも唐突に「ワシャ決めた!!ワシャ舞う!!」って言いだして、舞いを披露し出してん。総勢20人が手拍子を。』『動きが緩慢すぎてよく分からんかったけど、とにかく舞ってたわ。俺も一生懸命やったよ、手拍子。』『どんどん手拍子の音も大きくなって、オジイの動きもどんどん大きなってくるわな。みんな酔ってるし。オジイのテンションも無茶苦茶、もう完全にブチアガって、「ヨォ!じいちゃん!」とか言うわけよ』『ほんでめちゃくちゃオジイの動きが激しくなって、ヨッ!ヨッ!ヨッ!って、その舞いの絶頂にオジイが「オオッ!!?」って叫んで、急に止まって、ピクリとも動かんなってな。』『オジやん、大量にお漏らし。』『ボトボトボトーーー!!!って見事なもんよ。みんな「おじいちゃーん!!」言うてな。オジイ、まさに絶頂やったんやろな。退場して二度と宴には戻ってこんかったわ』『その騒動の渦中、俺はみんなの残した鮎の塩焼きを貪ってたんやけど。あの鮎うまかったわ。もう一回食べたいな。』と、そんな内容だった。先輩(34)は最近、前の彼女が頻繁に夢の中に出てくるらしく、『俺さぁ、これ病院行った方がええんかな』と言っていた。ぼくは何にも気の利いたことが言えず、『今日はシコって寝ましょうよ』としか言えなかった。



by ahoi1999 | 2016-11-01 00:13 | 生活 | Comments(0)

カテゴリ

全体
家族
通勤
生活
思い出
妄想劇
未分類

以前の記事

2019年 07月
2019年 05月
2018年 12月
2018年 04月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 08月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 01月
2014年 09月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

手汗がひどいので手の甲だ..
by ahoi1999 at 17:59
たしかに。語感大事です。..
by ゆ at 19:35
その通りです。ご名答です..
by ahoi1999 at 15:22
あほいさんの由来はクラム..
by ゆ at 19:49
それはどうも、ありがとう..
by ahoi1999 at 02:27
あなたにあこがれてブログ..
by ゆ at 00:25
なるほど? 読み物とし..
by よ at 10:08
ありがとうございます。社..
by ahoi1999 at 21:17
なんかもう、なんかすてき..
by よ at 23:00

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

コミュニケーションのこと
at 2019-07-27 01:02
息子の遠足
at 2019-05-28 01:44
春はすぐに終わる
at 2019-05-21 00:45
足首出す子とアイ・コス美
at 2018-12-22 23:37
息子とテルコ
at 2018-04-11 01:12

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

日々の出来事
家族生活

画像一覧