カテゴリ:家族( 6 )

息子とテルコ

母が息子に買ってくれたおもちゃがある。
押すと音が出る大小さまざまなボタンや球が飛び出したりするギミックを備えた、なんともやかましいおもちゃである。
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息子も気に入っているようで、アーアーウーエィッ!!と喃語を唱えながら所々を触りまくっている。
彼なりに楽しんでいるようだ。


ところで、側面にはこんなボタンがある。


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青い星型の「メロディ」と書かれたボタンを押すと、童謡が1コーラス流れる仕組みだ。オレンジ色の「せんきょく」で曲を変えられる。正確には分からないが、5曲くらいは音源が内蔵されているようだ。このおもちゃが到着して2か月余り、息子もこの機能に習熟してきたらしく、頻繁に押してはヘラヘラとひとりで笑っていることが増えた。



当家には家庭内知能序列というものがある。厳然たる事実により、その序列は決まる。現時点での家庭内知能序列1位は国公立大卒の嫁、2位が三流私大卒のぼく、3位うさ太郎(メス・2歳)、4位が息子、5位はうさお(オス・1歳)である。また、うさぎの名付けは嫁によるもので、ぼくはただ嫁がうさぎを呼びかける声で「そうなのか」と気付くだけである。



最近、その家庭内知能序列4位の息子も知恵がついてきたようで、例の「メロディ」ボタンを押してはぼくに童謡を歌うよう強要してくる。歌わなければぼくの顔を無表情でじっと見つめてくる。関心がない風にしていると、またボタンを押し、無表情で見つめてくる。鳴り終わるとまたさらにこれを繰り返す。「大きな栗の木の下で」の、電話の保留音のような人工的な音源がリビングに響きわたるのである。繰り返されるその空間、空気、視線にぼくはさすがにたまりかねる。その瞬間、歌うしかないと感じ、『おおきなくりのぉ~きのしたでぇ』と始めたらそこでもうおしまいである。先ほどとは打って変わって息子はニタニタと笑い、人差し指で「メロディ」を押す。ぼくはあの無表情と保留音が織りなす独特の「間」が再び訪れるのが嫌で、『おおきなくりのぉ~きのしたでぇ』と歌う。それを見てまたニタニタと笑う息子。人差し指は既に「メロディ」ボタンを押せる位置に置かれている。先週ぼくはこのループを15回やらされた。声もかれ果てる。嫁は『私は手拍子。』と言っていた。



日曜日に、息子を連れてテルコのところへ行ってきた。昔このブログにも書いたあのテルコだ。風変わりだった亡き祖父の姉であり、ぼくの大伯母。今年で92歳になる。数週間前に発熱とも言えないような発熱が続いて入院し、しかし検査しても異常はなく、数日経ってごはんが食べられなくなり、今は点滴だけで生きながらえている。医者は老衰だと言う。胃ろうは本人が拒否したそうだ。総合病院の個室。ひとめ見て、この人は死んでしまうなと思った。母方の身内からは3人見送ったが、死んでいく顔/死んだ顔は皆一様に同じだった。だいたいが曽祖母か曽祖父の晩年の顔に似てくる。一族みんなそうだ。テルコは、曽祖父の晩年に似すぎている。そういう死んでいく顔をしていたから、思わずいったん退出して、気持ちを整理してからまた病室に入った。



声を掛けると、『ああ』と返事があった。いろいろと問いかけるが、『ああ』としか返事がなかった。というより、それしか出来ないようだった。耳はしっかり聴こえているし、ぼくがやってきたことも理解も出来ている。体だけが追い付いていないようだった。息子は人見知りをして泣いた。泣いているが、抱きかかえてテルコの枕元に下ろした。すると、ぐったりしていたテルコが手を伸ばして息子の体を触って『ああ』と言った。いろいろなところを触って、触るたびに『ああ』と言った。今生の別れになることが分かっていたのかもしれない。なるべくテルコが手を伸ばせる位置で息子をあやしながら、ぼくはいろいろな話をしたが、内容はあまり覚えていない。返事が『ああ』しかないから、一方的に話すだけだったし、ぼくはぼくで何でもいいから話しておきたかっただけなのかもしれない。



面会終了時間が来て、『また来るから』と言って握手をした。テルコはとにかくアメリカナイズされているから、その後にハイタッチを求めてきたので応じた。そんな体力がどこにあるのかは全く分からなかったが、とにかくテルコらしさはあった。親しい身内が死んでしまうのは(まだ死んでいないけど)、悲しいことだ。ぼくは親戚付き合いが熱心ではないし、まあ年に1度くらいは会っとくか、会えなかったらまた来年でいいか、程度でしか親以外の身内と関係しない方だけど、それでもやっぱり悲しい。人は生まれて死ぬ。テルコは死んでしまうけど(まだ死んでないけど)、息子は何事もなければ生きていく。あの病室では、なんというか生と死が交錯していて、また死も生を完全に諦めてはいなくて、ぼくはその中間で、感情がぐちゃぐちゃになる光景があった。息子をバギーに乗せ、エレベーターを降り、病院の休日出入口から外に出ると涙が出てきた。駅に向かう途中、あんまり涙が出てくるので、訳が分からないのも分かった上で『もうおばちゃん死んでしまうんやで』と息子に言ったら、息子は声を上げてびっくりするくらいゲラゲラ笑った。ありあまる生は、死の前ではあまりにも不謹慎だ。そんなことを思って、ぼくは泣きながら笑った。




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by ahoi1999 | 2018-04-11 01:12 | 家族 | Comments(0)

テルコの話

テルコとは、亡き祖父の姉のことである。今年90歳だから、大正15年の生まれということになる。日本では若槻礼次郎が首相をやっていて、中国では北伐が始まって、ヨーロッパのほうではアガサクリスティが失踪した年だ。曽祖父と曾祖母はその間に4人の子供をもうけるのだが、3人目に生まれたのがぼくの祖父シンイチで、対するテルコは第一子。他の二人はどちらも女である。つまり祖父は唯一の男。こんな家族構成だから、曽祖父と曾祖母は祖父には甘く、テルコには厳しかった。当然、祖父とテルコは生涯折り合いが悪かった。テルコは甘ったれで要領の悪い祖父をいつも馬鹿にしていて、馬鹿にされた祖父は黙って下を向いていた。そして祖父は、夢の中でテルコを2階の窓から放り投げたりしていた。何故知っているかと言うと、祖父が寝言で言うのである。『テルコぉ~~コノヤロウ~~!!2階から放り投げてェェェ!!ア~~~!!!』でも本当にいつも祖父はテルコに迷惑をかけていたし、黙って罵倒に耐えるしかないのである。祖父がやっていた本屋が火の車になって倒産したときもその借金の穴埋めはテルコがしたし、曾祖母がボケたときに『わしには出来ん』と言って実母の介護を放り出した祖父を叱責して曾祖母を引き取ったのもテルコだった。曽祖父亡き後は、テルコこそ当家の家長だったと言うべきである。



テルコはとにかく負けず嫌いな人だ。大正生まれのポスト即身仏の間では未だにホットワードらしい「高女」、つまり高等女学校に進学したのも、とにかくひとに負けたくない一心の結果である。ひとに負けたくない。負けないためには努力しかない。テルコをそういう性格にしたのはどうやら、曽祖父が原因のようだった。テルコは言う。『高女で2番なんや。わたしは。そやねんけどな、奈良の女高師をな、受けさしてもくれへんねんや。』一字一句覚えているほど、何度も何度も聞かされた話である。70年以上前の恨み節が21世紀にこだましている。つまり、テルコは今で言う大学受験をさせてもらえなかったと言っているのである。さらに続けて、曽祖父はこう言ったのだと、口真似をしながら言うのである。『大津高女で2番でもな、県に高女は10ほどあるわ。1番と2番の人間が20人おるということや。これが全国になってみい、何人になる?奈良女の募集は何人や?それでも受かるんか。』テルコは先生になりたかった。そのためには女子高等師範学校に行かなくてはならなかった。しかしながら当時、官立女子高等師範学校は東京と奈良にしかなかった。つまり、曽祖父のいうことも正しかったわけだが、ここまで鼻っ柱を折らなくても良いのではと思う。曽祖父はテルコに対して万事こんな調子だったのだそうだから、テルコの性格も自然、「実力で有無を言わせる」タイプになった。中高生だったぼくには当時よくこう言っていた。『勉強がでけへんて、そないなもんな、したらええんや。何べんでも。わたしはしてきた。普通にやってアカンのやったら寝んとやるんや。少々のことで死ぬかいな。ナニクソ、こんなもんやったる。それでいかなアカン。』ちなみに、テルコは80歳の時、ぼくと同じ大学でいくつかの講義を受けて単位を貰い、成績表をぼくに見せながら『全部Aもろたわ。アンタより優秀やな。』と言って喜んでいた。若いころ大学で学べなかったから、今行ってやる。負けず嫌いもここに極まった。



自称『勉強ができた』テルコには、戦時中の暗いエピソードなど全くない。『学徒動員かてな、工場ちゃうんや。司令部で赤紙を打ってな、ほれを送ったりしてたわ。』ドヤ顔ではなく、まさに選民の表情をする老婆。わたしはエリートだから司令部勤務なんだと、自慢げである。祖父が『重ったい重ったい真空管の箱を持たされてやな、しんどいしやな、憲兵には怒られるし、爆弾はドーン言うて落ちるし』と言っていたのとは正反対の動員生活である。やがて敗戦を迎えた後、その司令部はGHQに接収され、進駐軍のいわゆる地区司令部となった。戦時中の英語教育は無かったなどと言われるが、当然『あった』し、『勉強ができた』から、その英語力が買われてテルコはそのままGHQの高級将校付の秘書のような仕事を同じ場所で昭和20年代の半ばまでしていた。ある日、ひとりの将校が『ヘイ、これ飲みなよ』と言って瓶のコーラをくれた。黒い三ツ矢サイダーのようなものかと飲んでみたら、ひとくちめでその異様な風味と甘ったるさに思わず吐き出してしまった。それを見た将校は指をさして笑い転げ、『テルコはコーラも飲めないのかい?ハハハ』と言ったんだそうだ。アメリカ人相手といえども自分を曲げないのがテルコ流である。またここでも負けず嫌いが出る。それから将校クラブに行って、毎日毎日コーラを飲んだ。一日一本、必ず瓶のコーラを空ける。戦後の食糧難など無縁である。テルコにとってコーラは、めったに飲めない甘いジュースなどではなくて、克服すべきハードルにしかならなかった。そして90歳になった今も、テルコはだいたいコーラを飲んでいる。



GHQ勤務時代、テルコは恋に落ちる。その時テルコは21、22歳くらい、相手はGHQ将校である。その頃テルコはとにかく毎日が楽しくて、最高だった。赤いハイヒールをはいて将校クラブのダンスパーティに行ったりしていた。いわゆるダンパである。フランク・シナトラのスローバラードで、意中の将校と踊ったりしていた。込み入った話まではついぞしてくれなかったが、どうやら相当いい感じだったらしい。でも、『お父さん、許してくれはらへんと思って。だって、外人さんやんか。』との思いに至って、ちょうどその将校が本国に引き揚げするのも手伝って、お別れをしたんだそうだ。それでその時、将校からバラの苗木をもらった。当時の心境は分からないけど、そのバラを家に持ち帰ったテルコは、庭の地下防空壕跡を埋めて、花壇を作った。そしてそこに、バラの苗木を植えた。かつての敵国の将校と恋に落ちて、厳格な父に気後れして恋が終わって、恋人の国の爆弾から自分の命を守るために作った防空壕を埋めてすっかり花壇に作り変えて、そこに恋人がくれた最後のプレゼントであるバラを植えて、成就しなかった恋を永遠に愛でようだなんて、とんでもなくロマンテックだと思う。そのバラは、それから毎年咲いて、50年経った2000年代になっても綺麗な花をぼくに見せてくれていた。



日本が独立してから、テルコは奈良ホテルに勤める。得意の英語で、フロント係をやっていた。最後は係長になっていたから、当時の女性にしてはよく出来て、よく評価されたんだと思う。仕事に没頭していても実家のことは気になるようで、たまに帰省しては舶来物の珍しい土産だとか、祖父の子供である叔父と母にパンケーキを焼いてあげたりだとか、とびきりアメリカナイズされた「スイな」女性として振舞っていたそうだ。確かに当時の写真なんかを見ると、フレームのぶっとい特大のサングラスにワンピース、そして派手な色のハイヒールをはいてドデカいつばの帽子をかぶるというような出で立ちで、とにかく派手だし、自信に満ちていて、仕事と生活を楽しんでいることがありありと分かる。ただひとつ滑稽なのは、今でも言葉の端々に英語が出ることで、酒を飲むところは全部『bar』と言うし、誰それの妻と言う時は『〇〇さんのwife』と言ったりする。ここは一歩間違えばルー大柴だし、いい加減にして欲しいと思う。



何の拍子か、テルコは40代になってから医者に嫁ぐことになった。お手伝いさんがいるような家である。『お金は使っても使っても無くならんのや』が口癖になったのはこの頃からである。家には毎週のように百貨店の外商さんが来るし、友達もお金持ちばかりだから、とにかく旅行だ食事会だと忙しそうにしていた。ぼくが物心ついたときくらいに医者の旦那は世を去るのだが、テルコとの間に子を成すことはなかった。当時テルコは70歳前後になっていたんだけども、旦那が死んでもめちゃくちゃ元気で、衰えと言う言葉はこの人には無いなと思った。テルコには、会いに行くたびいろいろと説教された。小学校の高学年くらいから高校生までは、ひとに負けるな、恥ずかしいことはするな、勉強をしなさい、この三つを何回も何回も言われた。ぼくは頭の出来があまり良くなかったので、テルコには結構バカにされたことを思い出す。これはお恥ずかしい話だが、それこそ頭の出来の悪さが影響して私立の大学に進むことになった時、奨学金だけでは到底生活が成り立たなくて、どうしようかと思っていた時に、テルコがポンと『アンタは勉強もあんま出来へんし、大学はまあまあ中の中ってとこやけどな、おばちゃんお金貸したげるから頑張りや』とまとまったお金を貸してくれようとした。本当にありがたい話だけど、ちょっとそれはと言ったら、母がオバチャンアザーッス!と被せるように言って、結局貸してもらうことになった。学生支援機構からも借りていたので、テルコ資金と合わせるとダブル奨学金ということになる。なお、母にこの時なぜそんな流れになったのか後々話を聞くと、『アンタの学費もそやけど、実はお父ちゃんの介護費とお兄ちゃんの入院費で首回らんかったんや私』と言われてアア~マジか~~となった。確かにぼくもあの時けっこうな額を度々オカンに貸してたなと思い返してみて理解した。つまり、プライドより生活を優先すべきこともあるということだ。



いまテルコはひとり、介護付マンションで暮らしている。軽度のアルツハイマーが始まっていて、本人も『もう私も歳やさけな、自分で何してるか分からんこともあるからしょうがないわ。ボケてもうてるさけ。』と言う。以前のような凄い気迫だとか、元気すぎるところだとか、努力していないひとをしこたまバカにしたりすることはなくなって、普通のおばあさんになった。全てテルコの希望で、いまの暮らしがある。遺言も用意している。テルコが亡くなった後に残る、莫大な遺産のほとんどは、育英会に寄付することになっている。勉強に助けられ、また勉強でひとを助けようとしたテルコらしい殊勝な考えだと思う。この前、京都で親族が集まるちょっとした祝い事があって、料亭まで送迎をした時に『マア~ほんまか、大きいなったというよりか、アンタもな、もうおっさんやなあ。は~~もうそんな歳か。』と、ぼくのおっさん化にひたすら感嘆していた。途中、入れ歯を自宅に忘れたりして取りに帰るハプニングがありながらも、その健在ぶりを親族一同にアピールしていた。もちろんその日も、お飲み物は何になさいますか?お煎茶にされますか?との給仕の問いかけに対して『コーラ!』と返していた。テルコレベルになれば、懐石料理にすらコーラを合わせるのである。『ひとに負けたくないし、恥ずかしい思いもしたくない。』100歳まであと10年だから、いつまでもそういう気持ちで、長生きして欲しいと思う。




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by ahoi1999 | 2016-02-11 02:45 | 家族 | Comments(0)

決断の数

一家の恥だからという理由で叔父のことを語りたがらない母が、『兄貴の件で大事な話がある』と電話を寄越したきた。叔父さんはこの春先に大腸がんが発覚していて、もうどうにも処置ができないというところまではぼくも話を聞いていたのだけど、いよいよかと思った。『何かあったとき、緊急搬送希望しますか?って聞いてきてんねんけど、アンタどう思う?もうええか?』そういう趣旨の電話だった。正直、ぼくにとっては縁もゆかりもない人だ。鉄格子の国でただただ生きて、その日を呼吸して、30年以上もそれを繰り返してきた。思い出も想い入れも、本当に無い。ぼく自身は金銭的にサポートしているだけだけど、それは叔父のためではなくて母のためにやっていることだ。ただ母にとっては数少ない肉親であり、実の兄だという、その一点だけが考えどころだなあということだけだった。これは本当に言葉の通り、「考えどころだ」ということだけで、当の叔父さんについては何の感情も浮かばなかった。『オカンもよう頑張ったから、もうええんちゃう?』と言った。これはもしかすると悪魔的な後押しかもしれないが、延命の是非は明確に否定した。母は少しほっとしていたようだった。世の中には誰に責があるわけでもない、どうにもならないことがとても多くあって、せいせいるてん、ぼくは、これで、いいと思った。


リーダーの糧は決断の数、というようなことを言った人がいる。うちの会社の、少々あたまの弱い部長が言っていたことなのだけど、この人はいつも半分正解で半分間違いな、もっともらしいことを言う。チャラい広告代理店やTV屋とつるむことによって、おっさんでもモテる可能性に気づいてしまった哀れな中年である。今では雑誌LEONが一世を風靡した頃に量産されたちょいワルオヤジの成れの果てのような姿態を世間様に晒している。銀座や新地でひたすら飲み続け、シメに馬糞のような臭いのするクソまずい豚骨ラーメンを食べることが彼の生活習慣である。自称「家族想い」であるけれども、職権を濫用して有名人のサインを攫っていく悪人でもある。『娘が欲しがっているから』と部長は言う。それは家族愛なのか。会社が出稿する億単位のカネをちらつかせて買えるものが家族愛ということなのか。家族愛っていうのは、そういうことなのだろうか。甚だ疑問ではあるけれども、愛の形は送り手と受け手それぞれの感じ方でそれぞれあるものだし、部長一家はこれでよしなのだろう。確かなことは、彼自身が決断を重ねることによって現在の見てくれとポジションを築いたことだけである。


あの時こうしていれば今こんなことにはならなかった式の話は枚挙に暇がない。あの時涙ながらに昇進の推薦を懇願しなければ「懇願主任」と呼ばれなかった人や、あの時『これから1万1発目の花火を打ち上げよう』と言いながら股間を動かさなければ気持ち悪い人扱いされずに済んだ人。あの時ほんの少し意地を張るのをやめていたら、あの時もっとバカになって楽しんでいたら、あの時真面目すぎる返事をしていなければ。でも本当のところ、あの時と今と、どんな関連性があるのかなんて分からない。もしかすると、我々が勝手な意味づけをしているのかも知れない。大きく、そして重要な決断を経たから今うまくいっているわけではなくて、小さく、とても簡単な決断を経たから今うまくいっているだけかも知れない。人それぞれの意味を結びつけて納得さえすれば、ぼくはそれで良いと思う。100年くらい前に生きていたロシアのじじいはこんな風に言っていた。『われわれの個人的人生の一日が、それ自身としては無意味であり、われわれの人生が、そのすべての日々の連関においてのみ一つの意味を持ってくる』 ― ベルジャーエフ「歴史の意味」(1923)




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by ahoi1999 | 2015-08-12 01:13 | 家族 | Comments(0)

うつりゆく言葉

言葉の変遷と言うのは面白いもので、現代新人類が使用する新語・流行語の類が話題になることも多い。もちろん我が家の中でも言葉の変遷というものがある。今日は、モラル意識が非常に低い我が家でポピュラーな言葉である「ホームレス」の変遷についてお話したい。私の実家は、昔でいう関所からやや離れた場所に位置している。旧東海道である。生前、曾祖母はその関所近辺の土地柄について散々にこきおろしつつ、『あっこらはナァ~雲助が出よるんや。そやさけナァ、ややこしいんや~』と言っていた。雲助、である。wikipediaには、『江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに携わった人足のこと』とある。関所があるのだから雲助、当然おるやないか!という話なのだが、曾祖母は全く違うニュアンスで使用していた。wikipediaをさらに引くと、こうある。『雲助という言語の由来は定かではないが、一説によると、人足たちが定住せずに「雲」のように周辺をさまようからだとも言われている。』つまり、住所不定日雇い労働者といった意味である。曾祖母の言う雲助は、現代の我が家で言う「ホームレス」に近いニュアンスで使用されていた。今のところ、当家におけるホームレス近似の言葉はさかのぼれる範囲でこれが初出である。


では、曾祖母(1900年代後半生)の子供たちはどうか。大伯母のテルコ(1920年代初期生)は、直球である。『わてらの小学校にはな、お乞食さんの子が居やってん。お乞食さん居はったねんて!お乞食さん。』お乞食さんである。「お」と「さん」には一定の敬意があるのか、一種の線引きなのかは分からないが、テルコは必ず「お乞食さん」と言う。食を乞うのである。テルコは今も存命なので、現役の「お乞食さん」話者である。貴重なサンプルです。テルコの話は以前ちらっと書きましたが(ヘタレな祖父が夢の中でだけ憎きテルコを投擲した件)、この人は話題が豊富なので別の機会に書こうと思う。さて、そのテルコの弟である私の祖父(1920年代末生)は「ルンペン」と言っていた。『公園にルンペンがおるさけ、ややこしい。』と朝の散歩コースを変更していたことが思い出される。祖父は、とにかくルンペンである。昭和初期の生まれである祖父の時代背景を考えると、ルンペンという言葉がすっと出てくることには納得だ。なお、母(1960年代中盤生)と私(1980年代中盤生)はTPOに合わせて「雲助」「お乞食」「ルンペン」を使い分けている。フォーマルな場では「ホームレス」「浮浪者」も使う。いや、そもそもフォーマルな場ではこういう言葉が出ないのが普通だが、一筋縄ではいかないのが我が家のインモラルぶりを露呈している。


話は全く変わるのだが、インモラルで思い出した。会社の事務員さんがエロいという話を聞いた。マーケティング部なかよし学級の私は、すぐさま先輩と連れ立って階段を駆け下りた。他部署にも関わらずそのご尊顔見るためだけに。そして、ドアの隙間から垣間見たその事務員さんは、高身長で巨乳、そして色白で若干のしゃくれ具合がエロさを物語っていた。まさに全身性器である。そのさまを目の当たりにした先輩は、『まさにSSS級E-BODYやな…』と呟いた。私はすかさず、『インモラルドスケベ女ですね…』と応じた。E-BODYご本人には全く申し開きの出来ない言い草だが、なかよし学級に免じて許してもらいたい。なお先輩は目下、食事に誘うため全力で職権濫用していると聞く。


最近、職場のトイレ(大)を綺麗に使えないダメな大人が多い。便座に陰毛が転がっていたり、便器内にウンコがへばりついているなど、全く正気の沙汰ではない状況を目の当たりにすることが多く、私はとても立腹している。下の世話も一人で出来ないやつは大人ではない。だいいち、インモラルである。便所は自己表現の場でもなければ腸内事情を具現化して披露する場所でもない。便所を綺麗に使えないやつは、きっと飲み屋でも飲み方が汚い客リストに入れられているはずである。便所も酒も、綺麗にさくっとできないやつは大人ではない。『人様のご迷惑にだけはならんようにしなさい』と曾祖母も言っていた。




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by ahoi1999 | 2015-05-10 02:58 | 家族 | Comments(0)

母と奇人

母には、頭のおかしくなった兄がいる。最近では「広島14万!長崎7万!広島14万!長崎7万!」と連呼している日々だという。たまに「警察に気をつけろ!アメリカ!」などと忠告してくれるそうだ。統合失調症の妄想は実に奔放である。母は「お兄ちゃんは夢の世界に暮らしてはるんやで・・・フフフッ・・・ヒヒッ!ハァーーッ!」と引き笑いをしている。逆噴射家族のリメイクがあるなら母を主演に据えるしかない。叔父とは、遠い昔に一度あったきり。当時4~5歳ぐらいだったと思う。病院のソファに座って面会をして、ぼくはみかんをもらった。忘れていると思ったのだろう。以来、一族の恥としてその存在をひた隠しにしてきたようだが、だんだんと察しはつくものだ。オフィシャル化したのは今年の正月。母は深刻そうに往時を語ってはいたものの、今では上記の通りである。狂気の中に正気ありというやつか。我が家はおかしみのバラエティパックである。

このようないきさつがあるものの、黒い話題は親子そろっての好物であり、その誘惑はいかんともしがたい。親子で休日のコメダコーヒーに入り浸り、ここ最近の強烈な個人との出会いを嬉々として語る様は、まさに糾弾ものである。奇人変人との出会いはネタとしてすっかり消化されてしまう。家を燃やされても致し方ないと息子としては感じる次第である。また、ネタとなる奇人変人との接触を介した結果、何故か堅い友情で結ばれ、不可解な交流が家族ぐるみで継続することもある。思いつくところでは、社長でもないのに社長と呼ばれている人物がそれに当たる。高島屋のデパ地下で惣菜を買っている時に「ぼくは百貨店に来ると興奮するんです!!」といきなり叫びだす奇人である。彼は赤帽で生計を立てている、還暦前の小汚いオッサンだ。ある日社長が他人と口論になって、ぶちキレた時の話を母から聞いた。激しい口論の末、沸点が頂上に達した社長は持っていた携帯電話を取り出し、逆パカするのではなく何故か口に含んだ末、噛み千切ってしまう。意味が分からない。携帯を噛み千切ったことで冷静になった社長は、「これで携帯の中身がどうなってるか分かったでしょう!!」と叫んでどこかへ言ってしまったそうだ。そんなことは知りたくも何ともない。口論の相手は呆然とするばかりであった。

まだぼくが仙台に居た頃には、こんなこともあった。「仙台に行くから、君のところに泊まらしてもらいます」と社長から連絡があり、出迎えたところ「コップのふち子ちゃんを探してるんや。日本橋に行ってもないから、仙台ならあると思て」と言った。頭がおかしいのである。仙台市内をひとしきり探し回ったあくる日、「ぼくが昔住んでいた東新宿のアパート、まだあるかなあ」と呟いて、朝一番の新幹線に乗って東京へと消えた。奔放である。偏屈を超えた珍人ではあるものの、かつては地元で生コン屋の社長をやっていた人でとても情に篤く、そのせいで会社を潰してしまったような人だった。頭はおかしいがバカではない、という母の人物評通りマトモと言えばマトモではある。母はその倒産した生コン屋で働いていて、それが現在に繋がる縁となっている。20年以上も前の話だ。甘いもの好きの社長は事務用品の輪ゴム一つや紙一枚の無駄遣いにも細かく、最初辟易したそうだが、その節約したお金でミスドを大量に購入してきて従業員にふるまったと言う。ドーナツ片手に「ちょっと節約するだけでこんなに美味しいものが食べられるんですッ!!」とひとりミスドの素晴らしさを語っていたそうだ。

最近母がニヤニヤしながら話をしてきたのは、病院で見かけた寝ているのか寝てないのかよく分からんおじいのことだった。もちろん赤の他人である。見舞いに行った先の隣のベッドにヨボヨボのおじいが居た。おかんは「こんにちは~」と挨拶したものの、全く反応が無かったそうだ。どうも耳が遠いのか、寝ているかのどちらからしい。しばらくすると、だいぶ離れた病室で看護師さんたちが大きな声で誰かに呼びかけているのが聞こえた。「〇〇さ~ん!〇〇さ~ん!」。廊下で反響する呼び声。すると突如、寝ていたはずのおじいが「ハアァ~~イ!!」と勢いよく返事をした。母は「(おじい耳遠いんとちゃうんかい!そんで寝てたんとちゃうんかい!)」と胸の奥で突っ込みを入れる。更におじいの名前は「△□さん」であり、「〇〇さん」とは一文字もかすっていない。母は内心、「(あんたちゃう!呼ばれてない!おじい、しっかりせえ!)」と突っ込み続けたと言う。

そういう母も、案外真面目ではある。「人をようよう見てやな、どんな人かを見抜いて、それが良い人やったらとことん付き合うたらエエわ。人の縁は大切にするもんや」と常々ぼくに言い聞かせる。この話は、「ただお金の貸し借りはしたらあかんで。借りたらあかん。貸す時はあげるつもりやで」と続く。身内ながら、なかなか感心させられる。論語の一冊より母の人生哲学。素直に耳を傾けるべきだと思った。母は今年50歳になる。



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by ahoi1999 | 2014-06-17 01:48 | 家族 | Comments(0)

おかしな祖父

祖父は風変わりな人だった。重度の痔持ちであり、一度トイレにこもると二時間は出てこない。一回の大便で週刊誌を一冊読んでしまう猛者も祖父を差し置いて他には居るまい。オフィシャル的には痔と呼ばれていたものが実は脱肛だったと発覚したのは、大腸ガンが発覚して入院した時のことであった。不謹慎ながら、母もぼくも肩をうち震わせていた。たまらず母は「アッ、アンタなあ。看護婦さん言うてはったやんかぁさっき…フフッ!ハハッ!おとうちゃんなぁ~脱肛なんやて!アッ!ハハハハッ!ヒーッ!」と得意の引き笑いを交えつつ爆笑していた。母には、ぼくもちょっと脱肛気味であるらしいことを、その場を借りして申し伝えておいた。もう5年も前のことである。

祖父には何か一つお気に入りを見つけると、執着してしまう癖があった。だいたいの場合は、食べ物なのだが、たまに食べたうなぎがおいしければ、半年はそればかり食べている。もう潰れてしまったパピヨンという名のパン屋で買ったメロンパンがおいしければ、これも半年続けて食べていた。体調を崩す直前には、天ぷらばかり食べていた。おかげで、高齢者の一人暮らしであるというのに、毎月20万程度の出費。内訳のほとんどは食事代である。

奇妙な行動にも定評があった。うなぎばかり食べていた頃、家のまわりには野良猫がよく出没していたのだが、祖父はうなぎの皮だけを綺麗に残して野良猫に与えていた。猫もたまったものではなかっただろうが、野良なのだから致し方ないのだろう。毎日うなぎの皮だけを食べに来ていた。しかし、どうやればあんなに綺麗に皮だけ残せるのだろう。こんなこともあった。「わしはな、綺麗な小銭だけで支払いたいんや」と言い出して、ありとあらゆる小銭をピカピカなものとそうでないものとに選別して、得体の知れない缶にそれぞれ分けて入れていた。当然ながら、ピカピカの小銭などそうそうあるわけではなく、汚い小銭ばかりたまっていく。このことに関してはいっこう意に介していない様子で、何故か玄関に置いてあった事務机の引き出しへとどんどん放り込んでいた。お札はまるで折り紙かのように3~4回折り畳んで財布に入れていたので、ますます意図が不明である。ピン札はくしゃくしゃにするのに、小銭には異常なこだわりを見せた。

愛想の良い人だったが、友人と呼べる人は一人も居なかった。例えば、ざるそばを上手に食べられず、箸で持ち上げたそばを空中でブラブラさせていつまでたってもそばつゆに浸せない。飲み物は必ずこぼす。万事そういう人だったから、とてもジジ臭く、ドン臭いのが嫌われたのかもしれない。車の事故だって何度やったか分からない。30年以上前、ハイエースで自宅に突入したことだってあったと母から聞いた。自己中心的で絶望的に間の悪い発言をすることも多く、親族含め周囲は辟易していた。祖父がよく寝言で自分の姉とケンカしていたのをよく覚えている。「テルコォォォ~!2階から放り投げてやるぞォ~」。まったく物騒な寝言である。夢の中で投擲されたテルコも御年88歳。いい迷惑である。祖父は若い頃教師を目指していたが挫折し、曽祖父の勧めで書店をやっていたのだが万年赤字経営でうまくいかず、最終的には工場勤務に職を落ち着けたのだが、これが性に合っていたのかもしれない。母は最後まで実の父である祖父を憎んでいたようだが、おかしな父に振り回された娘としては、当然の感情だと思う。

しかし、ぼくにとっては良い祖父だった。おかしな祖父がぼくの標準値だったから、多少のことは驚かなかったしこういう人だと思っていれば何の支障もない。孫への優しさというワンクッションもあったと思うが。世間一般の孫に漏れず、よくゲームを買い与えてもらったが、何より本だけは惜しげもなく人並みの孫より読ませてくれた。今でこそマンガをよく読むが、ぼくが小さい頃に読んだ記憶はほとんどない。小説ではなく自叙伝を。図鑑より百科事典を。祖父の教育方針なのかどうかは分からないが、とにかくそういうものをよく買い与えてくれた。ぼくにとっては、祖父がいちばんの生き字引であったことは言うまでもないのだけれど。

ギャンブルはやらず、女もまるっきりダメ、酒すら飲めないのに生活の才なく祖父の家計は常に火の車。その父である曽祖父が残した京町家づくりの家だけが唯一財産と呼べるものだった。敷地の半分を占める庭にはヒイラギやマキがあり、ツツジとキンモクセイが季節になると花を咲かせた。防空壕跡には投擲テルコが進駐軍にもらったというバラが植えてある。岩めいたものと灯篭。代々商売をしていた関係でこんもりした小山の上にお稲荷さんがあったりもした。この小山にはかつて飼っていた犬のジョンが眠っているという。ジョンも進駐軍からもらったらしい。お稲荷さんとの関係は大丈夫なのだろうかと子供ながら心配になった。夏になると手水鉢にはボウフラがわくので、祖父の家に行くたびにたまった水をひしゃくですくうのがぼくの役目だった。祖父の機嫌がノッてる時は、曽祖父の遺品である蓄音機でフランクシナトラを聴かせてもらったりした。

ぼくは今年、正月早々大事故を起こした。仕事帰り、秋田の高速道路。当時の気温はマイナス4℃で大雪だった。突然前が見えなくなって、運転していた営業車がスリップ。トラックと正面衝突して、弾き飛ばされた反動でまたトラックと衝突。結局4台が絡んで高速を止めてしまった。車は大破してベコベコになったけど、痛くもなんともないし翌朝病院に行っても診断書すらもらえなかった。迷信はバカにするほうだけれども、今回ばかりは祖父が守ってくれたんじゃないかと思っている。事実、奇怪でどうしようもない人だったけど、ぼくにはやっぱり、良いおじいちゃんだった。




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by ahoi1999 | 2014-06-04 00:25 | 家族 | Comments(0)


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