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核心の話、あるいは気持ちについて

核心を突くのであれば、文字通り単刀直入に訊くことがいちばんの方法である。しかしながら、世の中には色々な核心の突きかたがあって、その手法は千差万別そのものだ。つまり「単刀直入」という言葉がわざわざ出来てしまうほどに、多岐に亘るものなのである。


例えば、目の前にナッツの盛り合わせがあったとしよう。そしてピスタチオを手に取る。これを食す際には、殻の割れ目に沿って手で割る人がほとんどだろうが、おもむろに口へ放り込んだかと思うとうまい具合に歯でかち割る人もいるし、まったく割れなくて隣にあるピーナッツを食べてしまう人だっている。これは、食べられる部分、つまり核心への突きかたには複数の手法があることを示しているし、それと同時に、結果として「突けない」という事態も考えられることを示している。


一方、これがピスタチオではなく枝豆だったらどうだろう。茹でた枝豆へのアプローチは背側から中身を押し出すか、腹側から押し出すかの2パターン考えられる。しかし、枝豆の場合、ごくまれに中身が入っていない場合がある。ふくらみはあるけど中身がないものとか、そういうものが該当する。居酒屋でしたたか酔っ払った時にこういう枝豆が出てくると、枝豆の分際でなめてんのかと思う。話を整理しよう。核心の突きかたには色々ある。けれども、突けないこともあるし、そもそも核心などなかった、ということもある。つまり、「核心」を言い換えた、いわゆる「本当のところ」というものは、とても扱いづらく、水モノだということが分かる。これが人の気持ちであればなおさら水モノ感が出てくるだろう。


気持ちは本来的にひとりの人間が持つ一貫したものなのだが、その性質は、鴨長明が言うところの『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』というものだと思う。要するに、核心を突くタイミングによって、本当のところはあったりなかったりする。


ぼくはこのへんの間合いの取り方がとても下手くそである。「単刀直入」は、歳を重ねるごとに、出来なくなっている。なんのことはない、タマネギなのである。タマネギの皮をむいて、ひたすらむいて、最後にはなんにもなくなっている。最終的にはバラバラのタマネギが目の前に、ただある。包丁で叩き割ればよいものを、じっくり皮をむくことに集中して、ふたを開ければ中身がない。ああだこうだとズハズバものを言う人には感心できないけれども、少しうらやましいと思う。


核心にはタイムリミットがある。より正確に言うと、「自分が欲しかった核心」を得るためには、「突きどき」みたいなものがある。ぼくは他人の内面にどかどか入っていけるほど気が大きくないけれども、少しはそういう図々しさもないと「本当のところ」は流れ流れてどこかへ行ってしまう。確かなことは、1秒前の気持ちを意識して思い出せないほど、ぼくらの生活には刺激が多すぎるということだ。




by ahoi1999 | 2015-12-31 01:36 | 生活


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by ahoi1999