人気ブログランキング | 話題のタグを見る

20年前からだいたいメガネ

最近どんどん目が悪くなっている。メガネがないと何も見えない。メガネがあってもぼんやりしている。いま唐沢寿明のリメイク版24を見ているが、栗山千明の顔はバキバキに見えているのに、木村多江はなんかこう、まろんとしている。ハイライトの利きやすい顔というものがあるなら、それは栗山千明だろう。顔のハイライトが利いていれば、メガネも視界に利いてくる。映画テルマエ・ロマエなら、阿部寛・宍戸開・北村一輝・竹内力だけが目に利いてくる。あとは上戸彩含めて全部、まろんとしている。恐ろしいことだ。これから先、自分の目で見るものはぜんぶ諸星大二郎の「生物都市」みたいにうにゃうにゃになってくる。



大体にして、まろんとしている方が好みだ。サッポロ一番しょうゆラーメンよりもクタクタに煮込んだマルちゃんカレーうどんのほうが好きだし。ナポリタンを作る時は牛乳入れるし。ビジネスメールでは「恐縮ですが」と「御礼申し上げます」を多用するし。でもこれからの未来は「こいつは靴の先がとがっているからヤバい奴だ」くらいしか分からなくなる。靴の先がとんがっている以外の景色が全部うにゃうにゃになっているからだ。生物都市だ。家族の顔も、自分の顔すらわからなくなる。電撃ネットワークの南部虎弾みたいなフォルムにならないと自分を認識できない。全身整形してQRコードになるしかないのではないか。たいへんな恐怖だ。QRコードになった自分しか認識できない。QRコードになった自分をこのiphone8のインカメラで読み込んで、そこに表示されたQRコードは自分だ。アレっと思う。QRコードを読み込んだのに、QRコード?何これ?あっ、全身整形してQRコードにしたんだった。この時、自分、西暦2051年くらいになっておれば色々と諦めがつくだろう。



ところで、いまの蓄財の額は、将来の心配に値段をつけることだと思う。安心の値段は保険料で分かるけど、これは心配の値段とイコールにはならない。自分はちょっとしたことでは病院に行かないのに、家族のことなら朝一で連れて行く。OPEN前から並ぶ熱心なライブキッズのような年寄りと一緒に並ぶ。みんな心配なのだ。朝はいつだって寝続けていたいものだ。それなのに飛び起きて、病院へ行き、診察を受け、料金を払う。心配のコストは莫大である。どんな関係性の人に、どんなタイミングで、心配の気持ちを持つかによって、時々にその価値が変わる。だからどれくらい蓄財しておけば良いのかが分からない。我が家の心配はインフレーションなので、心配の値段が上がり続けている。心配するための蓄財の、そのために、いろんなところが切り詰められている。今夜はついに「たれとからしが付いていない納豆」が食卓に登場した。ものすごく安かったから当分これで行く、と妻が言っていた。



子供がもう少し大きくなったら、「デザインあ」の音楽の人について必ず言っておかないといけないことがある。君たちがかじりついて観て、口ずさんでいる音楽を作っているのはコーネリアスという人だ。CDの整理をしている時にケースが邪魔になるアルバムばかり作る人だ。ジャケットにはどろどろになった絵具とか青い点が描いてある。変形しているのだ。CDジャケットも、縦長だったり、ちょっと大きかったり、厚みがあり過ぎたりするし、中身の曲も変則的だ。だいいちギターが変形している。ぼっちゃん刈りのおじさんだ。そして今は「で・ざ・い・ん・あ」を連呼する不思議な曲を作っている。けれど、コーネリアスは、最初そうではなかった。最初から変形しているものなんて言うのは、ない。変形していることが普通なら、変形なんて言い方はしない。不思議なことが普通なら、不思議なんて言い方はしない。だから、突飛なことをするには、まず世の中の普通を知らないといけない。普通を知らないうちに突飛になろうとしても、それは突飛にならない。そもそも突飛と言う発想が出てこない。アール・ブリュットはアール・ブリュットをしていない人から見るからアール・ブリュットなんだ。だから、コーネリアスが気になったら、まずは聴いてください、Fantasmaを。


New Music Machine · Cornelius



# by ahoi1999 | 2021-01-30 01:56 | 生活

0時までに眠る

顔を洗う時、上下させる両手に速度がつき過ぎて、薬指が鼻に入った。昔はもっと鈍い動作で顔を洗っていたような気がするけれど、いつの間にかめちゃくちゃな速度で洗うようになった。だから、結構な頻度で鼻を指で刺してしまう。顔を洗うからには、スッキリとした感じが欲しい。鼻の右のきわから下のきわへ、さらに左のきわへ丹念に、しかも速く洗いきりたい。結果としてめちゃくちゃな速度で両手を上下させる。これをしないと、どうも洗った感じがしない。毎日の洗顔はリスクと隣り合わせだ。日常は痛くてつらい。



大学時代の友人に、タバコを吸いながらでないとウンコ出来ないやつがいた。タバコを吸ったらウンコが出そうになる、のではなくて、タバコを吸いながらでないとウンコが出来ないのだ。この友人は、司法試験に8回落ちた。就職活動はしなかった。公営体育館の監視員のアルバイトをしながら、実家で暮らしている。童貞だからという理由で、チェリーを吸っていた。チェリーを吸いながら、大学のトイレでウンコをしていた。迷惑なやつだ。あだ名は「ウマ」だ。輪郭が馬頭のようだからだ、と本人が言っていた。30歳をとうに超えてからも、負けたらケツを蹴られるという罰ゲーム付きの麻雀を大学時代の友人たちと実家でやっている。その罰ゲームの様子を、きっかり年に2回、動画に撮って送ってくる。本当に迷惑なやつだ。お互いもう司法試験の話はしない。チェリーが販売終了したことも話題にしない。だから、タバコを吸わないとウンコ出来ないことも、今は聞かない。日常の話には、立ち入らない。



独身の時、いきなり電話がかかってきて、頻繁に『泊めてくれ』と言ってくる友人がいた。その友人は全裸で寝る。寝るときに必ずイヤホンをする。いつも「スーパーの袋をぐしゃぐしゃにしている時の音」を聴きながら寝る。毎日どれだけのフラストレーションがあるのだろうと思う。いつか理由を聞いた時、『落ち着くから』と言っていた。別段むしゃくしゃしているわけでもない様子だった。朝、必ずカップヌードルビッグを食べて帰って行った。日常的にやっていることなんて言うのは、こちらが思っているほど特別深い意味は無いのかもしれない。



自分じゃない誰かと全然目線が合わないということは時々あるわけなんだけど、そもそも目線を合わせる必要があったのかという疑念もわいてくる。スバルのCMに賛辞を贈る人もいるし、食事は家族揃ってするのが当然だと思う人もいる。地方都市のライブハウスに出演した3ピースバンドが熱いMCをした後で泣きながら熱唱するのを冷めた目で見る人もいるし、泣きながらメンバーの名を絶叫する人もいるわけだ。そうすると、目線を合わせる必要があることと無いことを分けるべきかとも思う。でも、これもまた、突き詰めていくと、「分けるべきは、べきなのか」という問いにまで進むこととなる。物事は、できることなら、ファジーにしておきたい。



境界線を描くと、あっちとこっちが出来る。次に、あっちとこっちで、境界線が正しいのか誤っているのかという話になる。こじれて、線はぐしゃぐしゃになってしまう。そしてまた、新しい線が引かれる。消された元の線を塗りつぶしたり、時々はみ出したりしながら、線はどんどん増えていく。こんな感じのことを、ぼくらは延々やっている。信仰があるとするなら、こういう作業に疲れた人たちの拠りどころであるがためなのだろうと思う。神様はペンキの缶をひっくり返す。何もかも、全部考えなくて済むようになる。世の中に発言する人たちが、わざわざこしらえたその言葉の中で、「協調」にアクセントを置く意味は、「分断」が世の中の基本だからだ。みんな薄々分かっているからこそ、もっともらしい言葉が世の中に通用している。



ぼくは3ピースバンドの号泣熱唱に冷めてしまうほうなので、熱い気持ちは全然無い。できることなら、色々なことをファジーにしておきたい。日常のいろんなことは、ケーキのように等分できない。甘いクリームだけの日もあれば、酸味の強いイチゴの日もある。食べられない日もきっとある。だけれど、「ここにケーキがある」ということ自体に希望が持てる。何が起こるか分からない。だから、号泣ライブは最後まで見る。最後まで見た後で、号泣熱唱バンドについて調べたり、熱心なファンのSNSをパトロールする。これが抜群に楽しい。



先週末、鍋をしようと思い、野菜をたくさん買ってきた。水菜を洗おうとしたら、カタツムリが引っ付いていた。ピクルスの瓶に入れて、飼うことにした。いま大きく首を伸ばして、両目を大きく広げて、瓶をよじ登っている。登ったら次は、降りる。パターンが決まっている。観察していて飽きない。目線が合うことは絶対に無いのだろうけど、このことに特別な感情は覚えない。合わせる必要がないことを自覚しているからだ。あらゆる線は自分で引くものだし、他人にも引かれるものだけど、同時に消したりぼかしたりも出来る。大事なことは、この作業に疲れないことだ。0時までに眠ることをみんなが目標にすれば、世の中はもうちょっと良くなると思う。


U2 - City Of Blinding Lights

# by ahoi1999 | 2020-12-01 00:23 | 生活

夏にしたこと

夏が終わった。ただ暑いだけのなんともない夏だった。家族や友人、職場の同僚は夏ならではのイベントが消滅したことに不満を募らせていた。そればかりか憤ってもいた。ぼくは生来の出不精で、なんの苦にもならなかったから、その感覚がいまいちよく分からなかった。出掛ける用事があれば外へ行き、なければ家にいる。ふだん通りの夏が過ぎた。



この夏済ませた用事と言えば、頭に穴をあけたことだ。ある日いつも行く美容室で、『頭がボコッとなってますよ』と言われた。そこのオーナーはねずみ講をやっているので、話はほとんど聞かないことにしているのだが、その日ばかりはすごい剣幕だったのでちゃんと聞いた。『腫れてませんかこれ、ホラ』とスマホで撮った写真を見せてくれる。後頭部だ。腫れている。痛くもかゆくもない。これは自分ではわからない。帰宅して妻に見てもらうと『ああ。なんか出来てるわ』と言われた。そこで会話が終わった。妻は録画した相席食堂に夢中なのだ。夫の後頭部に全く興味がない様子だ。つらい。ねずみ講に加入しようと思うくらいこの無関心ぶりがつらい。ちょっと待てぃ!のサウンドと共に、妻の笑い声が部屋に響いた。



診察を受けると、すぐ手術になった。『腫瘍です。放っておいても治りませんからね』とまるで罪人を見るような目で医者は言った。放置をしたわけではないのにその言い方は悲しい。医者は図で説明してくれる。頭に穴をあけ、腫瘍を取り出し、止血剤を入れる。簡単ですよ、と計算ドリルみたいに言う。最近は便利な医療器具があるのだと言う。円筒形のメスであるらしい。これを刺してグルグル回すと穴が開く。それだけのことです、と例の物言いだ。本当かよと思ったが、やってみると本当にその通りだった。こんなに血が出るとは思わなかったが、簡単な手術だった。腫瘍は良性だった。今後もあの美容室に通おうと思った。



好きなバンドがyoutubeに音源をアップしていて、コメント欄を見ていたら「早くモッシュダイブしたい!!!!!俺もゆったりダイブしたひーー!!」と書いてあった。自分はこのバンドを、音楽を、そういう方面から楽しんだことがないので心底よく分からなかった。「俺もゆったりダイブしたひーー!!」と口に出して言ってみると、余計に分からなくなった。「ゆったりダイブしたひーー!!」と思う人とぼくは仲良くやっていけるのだろうか。もしライブ会場で「ゆったりダイブ」に遭遇したら、冷ややかな目で見ても良いのだろうか。分断から協調へ、舵を切ることが出来るのだろうか。ほとんど自信がない。



他者の合理性について考えることがある。一見、不合理だとしても、その人にとっては十分に合理性があるということだ。その逆もしかりで、他者から見たぼくは不合理なことをしているように見えるだろう。普通はみんな、言葉に託したり、身振り手振りでこのギャップを埋めようとする。これは、ギャップを埋めることで理解につながるはずだ、ということが前提になっている。そして、人の半径3メートルで起こるしょうもない諍いのほとんどは、ギャップを埋めていく作業の中から発生する。他者の合理性の理解の名のもとに、ぼくは人間関係に面倒さを回避する。他人のことはよく分からない。「そうですか」で済むことは多ければ多いほうが良いと思う。



仕事をしていると、本当に訳の分からないことを言ってくる人に遭遇するが、大抵のことは「そうですか」と思ったり、言ったりすると何事もなく終わっていく。けれども、向き合わないといけない時もある。そうなると、合理性のギャップを埋めていかなくてはならなくなる。例えば、ぼくの上司は常に理解者であろうとしてくれる。教科書通りの対人マネジメントをしている。つまり、「傾聴」のスタイルそのままで対話をしてくれる。彼は勉強家であり、処世を理解している。部下と向き合うことで、合理性のギャップを埋めていこうとする。こういう役目は、いずれぼくにも回ってくることを理解しているし、彼もぼくにそのような役目を期待している。だから、ぼくも後輩と向き合っている。職縁でつながった人間と正面から向き合うことは、とんでもないストレスだ。他者の合理性の理解は遠い。



春にわずかばかりの寄付をした学校から、返礼のカレンダーが送られてきた。子供たちの描いた絵が、月ごとに載せてある。結構センスのある絵もあって、感心した。この夏は、妻の誕生日で、結婚記念日でもあったので、小遣い貯金から妻と子供たちにいくらかの品物を買った。それからまた、気になっていたところに寄付をした。遠い国の、大変な人たちには、何もかもが遠すぎて、ぼくにはよく分からない。だから、ぼくの半径3メートルに入るかもしれない他人のことを考える。他人のことはよく分からないけど、他人のために何をしたら良くなるかを考える。あれを食った、これを買った、みたいな話をしている人たちがSNSでやっているような床屋政談はしたくない。だいいちみっともないし、ケチくさい。あれを食って、これも買って、出来ることをしていきたい。これが合理的かどうかは知らないけれど。


METAFIVE - 環境と心理 -

# by ahoi1999 | 2020-09-12 01:52 | 生活

すけべぇはアクティブで

土用の丑だけは、保育園の給食でうなぎが食えるらしい。自分はひよこ豆が大量に入った妻特製の甘いカレーを食べていた。『あのなあ、今日うな丼食べてん。うな丼おいしいで』と息子が得意気に言ってきた。誰も聞いてないのに言ってきた。よほどおいしかったのだろう。『良かったやんか。おれも食べたいわ』と応えたら、『ウッソ!今日お父ちゃんうな丼食べてないの?』と言ってくる。『ウッソ!』と来たか。息子は店員にタメ口をきく常識がないおっさんを目撃した時のような表情をしている。ふざけた子供だ。実父だぞ。うな丼なんぞ食べてしまったら父の小遣いが無くなるだろう。小遣いが底をついたら虫以下の生活を月末まで続けることになる。父が植え込みのツツジを採って蜜を吸っていたらどう思う。30歳超えているんだぞ。



そんなことを思っていると、『お母さんも食べてないんやけど』と妻が言った。真顔で、目線はテレビだ。妻は戦国時代の日本人と同様、昼食を摂らない。日の出とともに起床し、21時には寝ている。暮らしが500年前である。体内時計が太陰暦である。彼女は去年、『うな次郎で十分』と言っていた。当家の食費は月3万円だ。母がこれ以上話さないことを確認すると、『じゃあ、明日うな丼食べたらいいやん』と息子は言った。娘は会話の隙を縫って父のおかずを手づかみで盗み食っていた。切り干し大根が半分以上無くなっていた。自分は『ほんまやね』と泣きそうな顔で笑った。



去年の春くらいから、仕事に関係する資格を取っている。業務に必須でもないし、手当がつくわけでもないけれど、物事を知らないおっさんに詳しく説明して何度も通って承認を得るわずらわしさから解放された。簡単な事前報告で「分かった」となり、簡単な事後報告で「分かった」となるから良い。資格は持っておくと便利だ。社歴を重ねただけのおっさんは「分かった」とだけ言ってくれさえすればよいものを、自らの浅学ゆえに質問を多数してくるから困る。決裁権のないおっさんへのご説明を重ねるだけで残業になる。ロックマンXでも中ボスがいちばん面倒だった。そこにいるんならセーブしてたのになあ。こういうおっさんにはなりたくないものだ。もう2020年なのだから、ペッパー君が上司でもいいのかなと思う。部下の発話に反応して「分かった」とだけ言うようにプログラムされたペッパー君。すぐにハンコを押してくれる。これなら部の業務は円滑に執行されるだろう。



帰宅して、子供に飯を食わせて、風呂に入れて、寝かしつけてから勉強を始める。必死だ。並みの必死ではない。合格しないと受験料が妻から補填されない。だから必死でやる。すると、合格する。小中高生とそれなりに勉強してきたが、こんなに必死になるのは大学受験以来じゃないだろうか。心理的な切迫感は受験の時よりあるかもしれない。あとが無くなってヒリヒリしていないと、人間動かないものだ。単に加齢がそうさせるのだろうか。中学2年生の夏休みは能動的だった。隣の市まで自転車を漕いでエロ本を買いに行った。20kmは漕いだ。エロ本屋を巡りすぎてタイヤがパンクした。先輩から代々伝わる秘伝のエロビデオがあると聞けばすぐさま自宅を出発し、友人宅の上映会に参加した。公園の茂みに打ち捨てられたエロ本を拾って読んだ日々とは明確に違った。アクティブなんである。いまはどうか。アクティブと言えるのは投資信託で選んだ商品くらいだ。あとは全部パッシブだ。



別に情けないとは思わない。全てを前向きに、アクティブに生きることなんか到底無理だからだ。中学2年生のアクティブは全部エロだった。すけべぇのあれだ。アクティブスケベだ。それでいい。シニア向けの膝サポートサプリのCMなんか、「茶色の小瓶」に乗せてジジイが歩き倒して、最終的に孫を追い抜かして延々歩いて行く。「じいちゃん、待ってぇ」の声も耳に届いていないようだ。ずんずん歩いていく。膝が痛まないからだ。一体どこへ行くのだろう。もはやボケているのではないかと感じる。健脚の痴呆は厄介だ。とにかくそこら中を歩き倒して帰ってこない。祖父がそうだったからだ。アクティブな痴呆者というのもたいへん困る。やはりアクティブは投資信託あたりが適当なのではないか。買い物でも頻繁に使うので、ポイントが貯まってお得なイオン銀行で信託口座を開設して良かったと思う。



何が言いたいのか分からなくなってきた。曾祖母も、大叔母も、ボケはじめのころ『頭がぐしゃぐしゃになったみたい』と言っていた。よくない。とにかく、土用の丑にうなぎを食べたりしなくても健康であるし、小遣いを節約したぶんで子供たちに菓子を、妻にはビールを買い与え、夜は本を読んだり資格の勉強をしている。決してアクティブではないけれど、そこそこ細く長くで毎日やれている。たまに配信でライブを観て、投げ銭をする。保険も当面困らない程度にはかけたし、帳面上はいつ死んでも大丈夫だから、肩の力も抜けていい感じである。ヒリヒリはしていない。ヒリヒリするのは試験の時だけでいい。あとは当分パッシブでやっていくつもりだ。ただ、すけべぇだけはアクティブでありたい。うなぎは食べられないけれど。




group_inou / BLUE

# by ahoi1999 | 2020-07-23 01:53 | 生活

食わず嫌いでいたい

このひと月の間、四六時中家族全員が家にいたせいで、『食うしか楽しみがないわ』と妻が言った。食うしか楽しみがない。そうかもしれない。食うことは楽しいが、食う以外にも楽しみはある。だけれども、子供の世話があるので家にいて楽しいことはほんのわずかだ。本を読めば破ろうとするし、映画を見れば耳元で叫ぶし、携帯をひったくって勝手にフェイスタイムをするのが子供だ。そういうことで、「おうち時間」という呼びかけは我が家でむなしく響くだけである。



スライスした玉ねぎに醤油を垂らし鰹節をふりかけたもの。オクラとめかぶに白だしを加えたもの。人参のぬか漬け。南瓜の煮炊き。そういう小鉢の集合体で夕食が構成されている。メインはあったり、なかったりする。妻の好みで、そういうことになっている。朝食と昼食は各自で、というのが当家のしきたりである。『めんどくさいわ』ということである。当然である。だいたい料理は面倒だし、妻が一人で毎食作ると言うのもおかしな話だ。ぼくは昼に、好物の納豆ご飯を食べたり、袋麺を食べたりしている。作る時間と食べる時間がほぼ等しいので、気に入っている。自分が食べるぶんには、これでよい。



動物の内臓や魚卵、植物の地下茎などが妻の好物だ。母の日に何か、と思っていたところ、『食うしか楽しみがないわ』と言っていたので、イクラやウニ、ホタルイカを買って手渡した。木箱に入っている、いかにもな感じのものを選んだ。実のところ、ぼくにはこれらの美味しさが全く理解できない。目利きも出来ない。なので、それらしいものを選ぶしかなかった。満足そうな顔で食べ、酒を飲み、酔って寝た。食べるように勧められたが断った。イクラは生命が破裂する感触を口の中で感じるし、ウニは異様な風体の物体が割れて滲み出した憎悪、という感想しか浮かばない。ホタルイカに至っては、生で丸ごと食うわけだ。すべてを噛み砕いて、そんなもの、人間がやることじゃない。やるべきではない。ぼくは食べることをもっとエシカルに考えたい。



『食わず嫌いですな』と言われても、そうとしか言いようがない。でも実際問題、ぼくがそれらを好きであったなら、『いいんですか』と言いながらひと口ふた口食べてしまっただろうし、そもそも買わなかった気もする。一万円くらいで何か、と思った時に何のためらいもなく買えたのは単に興味がなかったからかもしれない。好きで仕方ないことは大事なのかもしれないけれど、嫌いどころか興味すらないことのほうが良い方向に進むこともある。これは食べ物に限った話ではないだろう。



ツイッターを見ていると生きる意味に悩む人が結構いるんだなと感心する。生きる意味は生きることの連続の中でしか見いだせない。だから、生きる意味を問うのはとてもナンセンスなことだ。ぼくらがかつて、何も知らない少年少女だったころ、それぞれのやり方で哲学してそのナンセンスさに気が付いてきた。哲学書を読む者もあれば、他者とのやり取りでなんとなくこれに了解する者もいる。ナンセンスだと自覚して、なおそれを問う人もいるが、こういう人はたいてい頭の病気だ。いちど医者にかかったほうが良い。好きも嫌いも結局は執着心の現れであって、むくむくそれを増大させたところで良いことなんて何にも無かったじゃないか。経験則にふたをして、どこかに隠してしまうのは悪いことだ。



接客業をしている長年の友達がいて、ずっと心配だった。例の自粛で、職場があまり機能していないんだろうなということは想像できた。あんまり困っているようだったら、小遣い貯金から少しばかり融通しようと思っていた。前の週末に連絡してみたら、『4月は仕事飛んでパァ!5月は給料6割支給で、6月から満額出るって!!大丈夫!!』と底抜けに明るい返事が来た。そうだったのか、良かった。安心したついでに、あげるつもりだったものをどこかにあてがわないといけないような気がして、郷里にある「いつも困っているっぽい外国人学校」のクラウドファンディングページを覗いてみた。100万円の支援でシュラスコパーティに呼んでもらえるらしい。笑ってしまった。妻に言ったらバカみたいに笑っていた。100万円は無理だけど、できる限りのことをしておいた。



色々なことに興味を持って、無関心でいないようにしようとすることを否定はしないけど、それだけではないと思う。興味があるから出来ることもあるし、興味がないから出来ることもある。あることも、ないことも、全く同じ価値がある。どちらに対しても自覚的であることがいちばん大切だ。いまどき幸運にも、こんな時間にこんなことを書いていられるのだから、食わず嫌いできるうちはしていたいと思う。


Rawlife - jan and naomi

# by ahoi1999 | 2020-05-22 01:45 | 生活


内務省御検定済


by ahoi1999